1800年代末、釜山駅の向かい側は'清官'と呼ばれた。その頃中国は清だった。1884年の甲申政変が起きた年、ここ草梁に中国領事館が建てられ、周辺は中国人たちが居住する治外法権区域となった。龍頭山には倭館のある日本人区域、すぐ隣のここ草梁は中国人区域だった。今の釜山駅がある一帯は当時海だった。1900年に埋め立てられる前までは、白い砂浜に松の木が生い茂る海岸だった。中国人たちは家を建てるときに店舗を一緒につくり、草梁の海の近くに中華街をつくった。中国から運んできた布やシルク、履物、鏡を売っていた。今でいう免税店みたいなもの。草梁から瀛州洞へ行くにはこの道しかなかったので、客は自然と集まった。日本軍と米軍に翻弄された時代を耐え抜いた華僑の人々は、今もこの地に残って中国の食べ物を売っている。上海通りだ。おいしくて種類も豊富なチャイナフードが味わえるここは、釜山のチャイナタウンとも呼ばれている。どの店でも華僑の料理人が腕をふるう。町の中華屋ではつくれない料理も多い。揚げエビを注文すると、大きな皿いっぱいに盛られて出てくる。
昼食を上海通りでお腹いっぱい食べた後、168階段をゆっくり歩いて金敏夫展望台に向かう。その名の通り168段ある階段。金敏夫という人の名前がついた建物は珍しく、少し戸惑った。 初めて聞く名前なのでスマートフォンで調べる。それによると、金敏夫は1941年生まれの詩人。<待つ心>の作詞家で有名だ。「日出峰に日が昇ったら呼んでおくれ」という歌だ。25歳でソウルに行って放送作家になった人で、ここ東区水晶洞の出身。山腹道路といえば展望、展望と言えば山腹道路だ。黄色いパラソル付きのテーブルが並ぶ展望台からは釜山港を一望でき、チャガルチで花火大会があれば、ここでも見ることができる。
ここからは'草梁イバグ道'。大新洞、宝水洞、草梁、水晶洞を結ぶ長い山道を山腹道路と呼び、朝鮮戦争のときは避難民たちがこの山に群がって次々と家を建てた。家を建てると同時に道をつくり、また家を建てては新しい道をつくるを繰り返したので、山腹道路の一帯は、道と階段がくもの巣状になって形も様々。何もないところから始まり、改築して立派な家に変わったところもある。どの道にも歴史が刻まれていて、角を一つ曲がるたびに色々な顔が見えてくる。イバグ工作所は終戦後と朝鮮戦争、ベトナム派兵と続いた歴史を紹介する生活資料館。ここでイバグ道のおおよその構造を理解しておけば、山腹道路の旅もしやすくなる。
上海通りと金敏夫展望台、釜山初の個人総合病院だった旧百済病院、釜山最高の物流集散地だった南鮮倉庫、1937年に開校した草梁小学校、1800年台末に建てられた草梁教会、草梁の山間の町を守る神霊堂。イバグ道の近代と現代の姿を伝える。瀛州洞から中央公園へ行く道の曲がり角にある「歴史のディオラマ」は、くねくねした道を見下ろしながら釜山の歴史をじっくり味わうことができる。ディオラマとは立体模型のことで、これは山腹道路にまつわる話を映画のワンシーンのように見せていると思われる。近代から想像してみて。港に下りた西洋人の宣教師たちや彼らが建てた教会、病院、清の商人たちや貿易品が並ぶ通り、外国製の靴を買いに清官通りに繰り出した女性たち、日本軍が押し寄せた釜山のあちこち、終戦を迎えた喜び、釜山港から母国へと帰っていく日本人たち、敵国の家屋、全国から避難民が流れ込んで臨時首都となった釜山、どんなに狭くても土地さえあれば妻と子供のために家をせっせと建てた父親たち、大金を手に入れるために遠く離れた他国の戦地へと旅立った息子たち、帰ってこれなかった人と帰ってこられた人、民主化運動をしたアメリカ文化院前の道、連行されないように教会に隠れた青年たち。山腹道路はこんな話がたくさん詰まった場所だ。イバグ道を歩けば、そんな物語がいたるところに潜んでいる。
民主公園と中央公園を結ぶ亀峰山の頂上からは、山腹道路のどの道を通っても下りることができる。この一帯に残るたくさんの人間ドラマは、どんな時代を経ても語り継がれ、これからもそうだろう。民主公園内にある図書館は、今日も就職活動に勤しむ若者たちが足繁く通う。彼らもまたこの時代に生きた人々の話としていつか語り継がれるのだろう。