釜山の人なら、このコースはたいてい幼少時代に歩いたことだろう。東莱邑城は釜山の小中学生、高校生の遠足や現地学習の場だ。東莱城は韓国史の教科書によく出てくるが、釜山市が保存して管理する資源は一つ二つではない。外敵の侵入を防ぐために城を築き、城の中で軍の訓練をさせるのが国防の官吏で、東莱城は高麗時代末期から築き始めた城だ。今の堅固な城壁をつくるために、昔の人は石を一つずつ担いで山に登って築き上げたのだ。1970年から補修した城ではあるが…。この城を守っていた東莱府使の宋象賢が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦いで殉死した。ここは最大激戦地だった。
東莱の儒学者たちは宋象賢を祀って毎年祭祀を行い、その忠節を後学に伝えた書院は忠烈祠にある。忠烈祠は、梵魚寺や仏国寺のような寺ではない。忠烈祠は祠(ほこら)だ。儒学者たちの祭祀は民族の精気を奮い立たせていた。日本統治時代は放置されて崩れてしまったが、今はきれいに再建されている。国を守るために殉死した英霊を祀る場所に、一度足を運ぶべきではないだろうか。宋象賢の魂が宿る忠烈祠で祈ろう。今年は彼氏ができますように。願いが叶うかどうかは誰にもわからない。でもタロット占いよりも確立が高いのでは。
福泉博物館を知っている人は多くない。だが、行ったことのある人なら、みんな似たようなことを感じただろう。思ったよりも施設が良いと。東莱区福泉洞の丘陵は、朝鮮戦争の後、避難民がバラック小屋を建てて暮らしていた。土地さえあれば住み処をつくった時代だったので、丘陵の上に家を建てたと聞いても少しも驚きはしない。1969年に釜山市がこのバラック村を民間に払い下げ、開発工事が始まった。すると、この丘陵は伽倻時代の共同墓地だったのだ。ショベルカーで掘ると土器のかけらが混ざり、すぐに墓に続く通路が見つかった。業者はどれだけ悔しい思いをしただろう。これで開発なんかできなくなった。
福泉洞の丘陵が古墳群とわかり、計9,000点もの遺物が出土された。古墳群の後ろに建てられたのが遺物を展示した福泉博物館。エアコンもよく効いて静かなので、町のお年寄りがしばしば訪れる。年に一度、釜山の古代文化に関する特別展を開くので、思ったよりも見所がたくさんある。伽倻文化を誇るのは金海市だけではない。釜山には福泉洞がある。
博物館の観覧を終えて数分歩くと東莱邑城に着く。子連れの家族は城壁を伝って行き、壮絶な戦乱の様子を子供に説明する。一昨年にストーリーテリング作業のためにこの道を歩いて、子連れの3人家族に出会った。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)とき、この城でおばさんたちが前掛けに石を入れて運んだと、お父さんが真剣な様子で説明していた。お父さん、前掛けではなく雑巾だけど…。城全体が灰色だから、カラフルなアウトドアファッションは10km離れた先からも識別できそう。敵の銃で撃たれる可能性ありだ。10月頃に開かれる東莱邑城歴史祭りは、当時の戦闘の様子を再現する。朝鮮時代の白い服を着た邑城民に扮し、日本軍をやっつける光景を再現する。時間をうまく合わせて見物すれば1対1の戦いがどんなものかを知ることができる。壬辰倭乱を素材にしたFPSゲームがあればいいのだが。釜山の歴史を背景にした戦闘、かっこよくない?
郷校は地方の教育機関で、官庁が管理するところだから公立学校のようなもの。東莱郷校は東莱の公立学校で、高麗時代からあった。70名を選抜して儒学を教えたというから、ここに入るために2浪、3浪する人もいたのでは。それなら予備校も?家庭教師も?試験は論述で?壬辰倭乱でほとんどの木造建築が燃えてしまったが、ここ東莱郷校も同じ。1611年に復元され、2010年に取り壊してから新しくつくり直した。今でも生涯学習院の認可を受けて、漢字の専門教育機関の役割を果たしている。19世紀まで東アジアの根幹であった儒学の専門教育機関、そして今でも教育機関の役割を継承しているとは。なんと680年近くも学校として機能しているのだ。東莱郷校ではたった数十万ウォンで伝統婚礼が挙げられる。現代の結婚式は伝統婚礼の一部だけをするのが慣習なので残念。郷校で正統な伝統婚礼が見られるなんてすばらしい!